交叉点
交叉点 画用紙、インクとクレヨン。30cm x 40cm。京都、2011年12月、立木コレクション。
この作品は、四つの場をなす道である。四つの世界、四つの可能性が開かれる。絵筆と指が織りなす色遣いの遊びが描くのは、いずれを選ぶべきかというためらいである。確かだと思う道を歩んでみても、その裏には選ばれなかった世界がいつも潜んでいるのだ。
二つの世界
二つの世界 画用紙、インク・修正液・クレヨン・色鉛筆。30cm x 40cm。京都、2011年12月、立木コレクション。
二つの世界、二つの知恵、二つの論理が巨大な天秤の両側に向かい合う。絶え間ない問い直しが支点を脅かしている。目茶苦茶な再考の波に、あれこれのバランスが揺らぎ、宇宙のすべてが呑まれてしまう。ここに描かれる孤独は希望へと続いている。
跡
跡 画用紙、墨・クレヨン・コラージュ。40cm x 50cm。京都、2014年、安井コレクション。
人類学者が待ち受けている。仔細に分析されるのは、赤土に見える鳥の足跡、恋人たちの歩みに添う残り香、そして人の作品。痕跡を生きた象徴として解釈してみても、その心は見つかるはずがない。
結婚
結婚 木製パネル、墨・クレヨン・スプレー。50cm x 50cm。パリ、2011年、ピュジョルコレクション。
中国のことわざに「結婚とは包囲された要塞のようなものだ」とある。外にいる者は入ろうとし、中にいる者は出ようとするのである。ここに描かれるのは、喧嘩がどんなに喜びをもたらすかをまだ知らない友人の叶わぬ望みである。以来、大火は真昼の空を焼き、いのちは真葛のように伸び続け、万事があたらしく始まったのだ。
欲望
京都、2015年4月、シュマルスコレクション。
欲望 画用紙、マーキュロクロム・墨・鉛筆・コラージュ。40cm x 50cm。
私とあなたの唇のあいだに、蔦を広げた葡萄のような小道が絡み合う。暁光にふたりのサングランスは奪われ、トラックには調律の崩れたピアノが座を失った王のごとく偉そうである。コーヒーはもう薫らず、芳しさに包まれるのはふたりの方である。私がいつまでもいられるよう、あなたは空に食卓を用意した。鳥たちは、ははははと笑っている。夢のような時間である。
サーカス
パリ、2011年4月、シャルルコレクション。
サーカス 木製パネル、スプレー・墨・クレヨン。50cm x 50cm。
あなたがいないと、私の人生は目茶苦茶だ。そのサーカスには、木から降りて来ない者の狂気を立てる道理がなく、井戸で永遠に水を待ちわびる者の甘美さもない。あなたがいないと、戦いは終わらない。古着のポケットに眠る何か小さな存在は、名を乞うている――人が眠りの果てに光を望むように。
着陸
セレスタ、2004年7月、シュマルスコレクション。
着陸 木製パネル、アクリル絵具・墨。30cm x 40cm。
着陸は、空の旅で最も危険な瞬間である。とくに夕暮れ時はいっそう覚束ない。パイロットの父を持つ私は、この恐怖を長らく心の底に押しやってきた。葛藤と戦いながらも、やっと描くことができた真実は、供物や香典のイメージではなく、父の喜びであったのだ。
空から降ってきた
空から降ってきた 木製パネル、アクリル絵具・墨・クレヨン。50cm x 50cm。パリ、2011年4月、カワラコレクション。
私は子どもの頃、時と場合によって人やものが出たり消えたりする、現実ではないところに生きていた。アルジェリアでのある夜、地震でベッドが部屋の真ん中まで飛ばされたとき、暗がりから静かに近づいてくる母の姿を思い出す。その時、何かが空から降ってきたのだ。
ジョゼとともに
ジョゼとともに 画用紙、墨・色鉛筆。21cm x 29,7cm。カストル、2007年春、ペヴェコレクション。
友人ジョゼは陽気な人だ。日常は彼にとって魅力に溢れたもので、そこに温かい人柄が溶け込んでいる。夜になると、技工士の彼は義歯を製作する。この日、滔々と語る彼の隣で私は描いていた。止めどなく語られる世界は天国にも似て、いつまでもいたいと思える場所だった。
アリュード
アリュード 木製パネル、墨・スプレー・クレヨン。50cm x 50cm。パリ、2006年春、ペヴェコレクション。
アリュードとは大きな羽蟻で、小鳥を引きつけるための罠に用いられる。南フランスではツグミの密猟者が、アリュードを餌にして樫の茂みに罠を仕掛ける。ツグミでつくるパテは目が回るほど美味だと言われている。ナルシス(密猟者)は自然(ツグミ)を犠牲にし、そこに価値(美味)を与えるのだ。
マシュマロとのダンス
マシュマロとのダンス 画用紙、コラージュ・クレヨン・水彩絵具・墨。40cm x 50cm。京都、2012年冬、安井コレクション。
東日本大震災から一年、生活は落ち着きを取り戻しつつあったけれど、日本人のなかには明るい気分を望む人だっていたかも知れない。マシュマロと踊り出せば、みんなたちまち喜ぶだろう。
交換
交換 画用紙、コラージュ・墨・クレヨン。30cm x 40cm。京都、2012年春、津田コレクション。
本当の交換とは、内なる庭に赴いて自分が一番大切にしているものを選び、同じように大事なものをくれる相手との間に成り立つものだ。交換を通して内なる庭に足を踏み入れる、これほどありがたいことはない。例えばそこにあるのは、金銭、接吻、映画のチケット、心の病、夢心地…… いずれにせよ、何かを与えねばならない!
笑いあふれる会
笑いあふれる会 画用紙、コラージュ・パステル・水彩絵具・墨。30cm x 40cm。京都、2016年春、若城コレクション。
「楽しく生きてきました」とある著名な日本の建築家が言った。実は謙虚な言葉だろう。例えば、歌手のマリア・カラスは脚光を浴びたいと思ったことなどなく、舞台袖で恐怖に怯え、観客の前に出るには誰かに無理やり押してもらわねばならなかった。勇気とは抽象的な概念ではなく、謙虚な魂に宿るものなのだ。
友情
友情 画用紙、コラージュ・墨・パステル。30cm x 40cm。京都、2015年春、シュマルスコレクション。
友情は交渉によるものではない。頻繁に会ううち、二人の世界が溶け合うように。「それは彼だったから、それは私だったから」とモンテーニュは言う…… 別の言い方をすれば、運動法則がもはや無効になり、時間が汲み尽くせないものになるということだ。
バカンス
バカンス 画用紙、墨。25cm x 35cm。京都、2010年春、若城コレクション。
バカンス、それは多くの子どもにとって、やっと家族で過ごせるということだ。しかし愉快な旅を知らずにいると、どうしても手に入らない望みを抑える必要もないし、家族で過ごす喜びも忘れてしまう。抑えずに済むということ、それもある意味ではバカンスではないだろうか?
メリーゴーランド
メリーゴーランド 木製パネル、アクリル絵具・墨。30cm x 40cm。セレスタ、2004年夏、シュマルスコレクション。
メリーゴーランドは過剰な場である。自分を忘れようとぐるぐる回り、そして私と一緒にいようとぐるぐる回るあなたと回り続けること…… 陶酔は定められた道行きで、生き残るために避けては通れないのだから、拒んではならない。ちなみに、至高の境地に至るのは二周目からである。
ビジネスウーマン
ビジネスウーマン 画用紙、コラージュ・墨。30cm x 40cm。京都、2015年春、前堀コレクション。
女性の居場所を寝室や台所、せいぜい家の畑に限っておこうとする人たちもいる。ゆえに今日でもなお女性が豚三匹の価値しかなかったり、奴隷同然に扱われている場所があるのだ! 力のある女性がキャリアを積んで花開く一方、その価値は高まり、豚で買うことができなくなった。
住所なし
住所なし 画用紙、コラージュ・墨・クレヨン。30cm x 40cm。京都、2015年春、シュマルスコレクション。
色とりどりの光に満ちた三角州の一隅を覘き、小魚やその捕食者を見てみよう。小魚が大きくなるにつれ、生き残った者たちは海の深みへと進み、無辺の沖を抱きしめる…… 釣り人の待つ沖を。成長の道にはつねに捕食者がいるのだ。
アコーディオン馬
アコーディオン馬 画用紙、コラージュ・墨・クレヨン。30cm x 40cm。京都、2015年春、シュマルスコレクション。
光が戯れるように乗り手のもとにやって来て、馬は撫でて欲しがる。ただ馬乗りは気がかりだった! こいつは一晩中歌ったり踊ったりできるんだろうか? 幸い、馬はアコーディオンの名手だった…… いつまでも踊っているほど、うまかったのだ!
後朝
後朝 画用紙、インク。25cm x 35cm。パリ、2002年、シュマルスコレクション。
山が生んだ、大きく孤独な陽が昇る。太陽の放つ火が夜闇を追い立てる、向こう側の生、もう一つの生との狭間で、もう一人が生きる生、失った片割れ、二度と会えない人の生との狭間で! 陽が深みから抜け出るや、青空が訪れる、一日の始まり…… 美しさを前に、愛人たちは孤独と悲しみに包まれる、苦悩を分かち合うことさえできずに。
オフィス
オフィス 画用紙、墨・水彩画・コラージュ。30cm x 40cm。京都、2013年5月、立木コレクション。
オフィスとは特殊な空間だ。誰にとっても真正でまともなもので、またそうであり続けるものだ。権力はそこにある。オフィスでの企みは聖なるもので、そこには飴玉から戦争まであらゆる欲望が渦巻いているのだ。雨を降らせることさえ不可能ではない…… どんなに重要な場所だろう!
仮庵の祭り
仮庵の祭り 木製パネル、アクリル絵具・墨・クレヨン。50cm x 50cm。パリ、2005年5月、ペヴェコレクション。
仮庵の祭りは、イエスが当時の宗教的な祭祀のなかで唯一残したものである。他の多くの祭りが許されなかったことで、怒りに駆られた人も少なくなかった。ゆえにイエスは追放され、その賛同者の意志を挫く目的から十字架に掛けられることになった。だが、迫害者たちの目論みは失敗に終わった。イエスの賛同者たちの勇気を挫くことはできなかったのだ。
糸杉
糸杉 画用紙、墨・クレヨン・スプレー・コラージュ。35cm x 45cm。ベオン、2013年、ペヴェコレクション。
糸杉は先の尖った大きな木で、ローマ人は死者の魂が空へと向かう標になると考えていた。イタリア人の祖先は亡き魂に行き先を教えるべく、道に沿って植わった糸杉の根元に死者を埋葬したのだ。今日では戦争が起こるたび、道に沿って死体が転がるが、どこにも糸杉は見当たらない!
怒り
怒り 画用紙、墨・コラージュ。25cm x 35cm。京都、2009年、シュマルスコレクション。
中国では「怒りとは、一瞬の狂気である」という。私たち現代人の世界をつくってきた選択の大半が、一瞬の狂気に由来するならば、私たちがどうしようもないノイローゼに苦しんでいるのも驚くには値しない。前の世代から受け継いだ暴力の教訓に取り憑かれ、同じように繰り返しているだけなのだ! 熟考する自由はこうして奪われてしまった。
八方塞がり
八方塞がり 画用紙、インク・コラージュ。40cm x 60cm。パリ、1996年、ペヴェコレクション。
ピッザニ先生の見張る自習室に閉じ込められて、ピエールくんはもう向かいのカフェに逃げられない。連れはタバコをやりながら語り合って、もっと楽しい時間を過ごしているというのに! どうしようもなくぼうっとしていると、脳裏を一瞬あるイメージがかすめる。ピッザニ先生がこけて病院に運ばれてくれないかなぁ…… と、本当にそうなった。よっしゃあ!
善き人
善き人 画用紙、墨・コラージュ。40cm x 60cm。ベオン、2011年、ペヴェコレクション。
フランス語では、気難しい人のことを « teigneux » という。ひどい痒みを伴い、性格にまで影響を及ぼす皮膚病の一種「白癬(はくせん)teigne」にかかったようだ、というのが語源である。反対に、心優しい善き人のことは « gentil » というが、こちらにはその語源となった病気がない、偽善さえもない。
電話中に
電話中に 画用紙、色鉛筆・墨。20cm x 30cm。パリ、2003年、ペヴェコレクション。
この絵は電話中に描かれた。誰が説明してくれる? 宙に漂う黄色い小さな絨毯を貫く、ピンクと灰色の稲妻を。葉っぱの椅子にくつろいだ太陽を、ティッシュ箱を。カーテン掛けに吊られたクローバーを、それからぎこちない影を? ……「僕は無理だよ」鴨は言った。「私にだって」七面鳥は言った。
恋と愛
恋と愛 画用紙、墨・クレヨン・コラージュ。30cm x 40cm。ベオン、2011年、ペヴェコレクション。
好色家は言う、恋は流れ星のように訪れて永遠を語る、退屈になるまでは! 時に恋と愛が結びつくと、退屈は遠のいてしまう! 尽きない欲望、果てしない興味、永遠の恋愛…… なんと! ユリシーズとペネロペの物語は現実なのか!
キャッチボール
キャッチボール 画用紙、墨・コラージュ。30cm x 40cm。京都、2013年5月、シュマルスコレクション。
ボール遊び。子どもの遊びと大人の遊び、白い背景にもつれあう体。これは試合ではない。というのも芝生がないし、誰も騒いでおらず、正式なルールもないからだ。あるのはただ、何ステップかのダンスだけ。いわば抽象的な遊び。
勤勉な出逢い
勤勉な出逢い 画用紙、インク。20cm x 30cm。パリ、1992年、ペヴェコレクション。
グラフィックアートのアトリエでローラはフィリップを見かける。二人はお互いのことを知らない。彼が心臓の病気のためにマダガスカルの海辺で療養することを、ローラは知っている。彼女の方から声を掛ける。私にとってもちょうどいいわ、あなたのお世話ができるじゃない…… まだ何も始まっていないのに退屈が訪れることもある。